院長コラム

大震災・原発事故を振り返って

大震災と原発事故から1年4ケ月、未だ復興の兆しすら見えず、充分な補償をも得ることなく困窮する人々、そして住み慣れた故郷に戻れない人々に思いをはせたい。
穏やかな日々の暮らし、人生の計画、希望を失い、自ら生命を絶つ人々の存在をも忘れてはいけない。
本県には、たとえ故郷を追われることなく日々暮していても、一見元気にふるまっていても、心の奥底に澱のようにたまっているさまざまな「負」の感情をどうすることもできない人々がたくさん存在する。
喪失感、失望、不安、いらだち、怒り、あきらめ、さまざまな感情が明確なベクトルを形成せずに奥底でうずまき、時として何かの瞬間に顔をだす。
この状態は何年も続くだろう。
泣くだけ泣いた後にすべてを割り切り希望を持って歩みだすことのできるような経験ではない。
それが2011年3月の福島で起こったことである。
大震災直後、県医師会の要請で地域医療機関の被害調査を行なった。
当田村医師会管区である田村市と三春・小野両町からなる田村地方は、かつて首都移転が協議された時に候補地のひとつと噂されたほど地震に強い地域として知られる。
医師会管区医療機関の被害調査結果からは殆どの医療機関において水・電気・ガス・電話などのライフラインが無事であることが確認された。
その後の原発事故さえ起らなければ、大地震・津波の被災者は勿論、この地域の人々を充分に支えていくことができる状況であった。
それが一変したのが3月15日である。
原発事故によって浮き彫りになったもの
 等しく国民に迅速かつ正確にいきわたるべき情報は、何らかの目的のためにあえて伏せられ、大多数の住民が目にしたのは、銀行・スーパーなどの突然の撤退、都市部に勤務する家族から断片的に情報を得た住民たちが避難を開始したことによる混乱である。
 不充分な情報が憶測を生み不安が増大した時に、原発から約40キロのこの地域に入るトラックは皆無になった。
 放射能を恐れたのである。
 郡山から先の田村地方に入る物資は、この地区内のドライバーに引き継がれて到着するという有様であった。
 ある銀行では支店長が福島市に、副支店長が郡山市に退避し、この地域には留守番の行員が一人残された。
 のちに判明した地区ごとの放射線量を考えるとき、この避難行動は全く皮肉な様相を呈していた。
 このような状況下で医薬品・医療品は勿論、医療機関職員の通勤に不可欠なガソリンが枯渇し始めた。
 職員の泊まり込みが管内の複数の医療機関・介護施設で行なわれた。
 津波と原発事故という未曽有の被害を受けた沿岸部からの避難者は昼夜を問わず続々と田村地方に到着し処方薬を求めて医療機関・薬局に殺到していた。
 何の資料も持たずに着の身着のまま避難してこられた人々への診療と処方に多くの医師会員が疲労の極みであった。
 悔やまれることはこの時点で田村医師会が緊急時の活動拠点をもっていなかったことである。
 非常時の医師会活動を協議することのできない中、ただひたすら県医師会に地域の実情を発信し助力を求めた。
 しかしながらそれらのSOSに対し、県医師会が迅速かつ効果的なやり方で県と日本医師会を相手に交渉、医療物資配送車両へのガソリンの供給、地域の医師会員への緊急車両ステッカー配布などの体制が整いつつあった。
 徐々に沿岸部の避難自治体ごとに避難場所が定まり、各地から医療サポートチームが到着した。
 その後は各地からの救援医療チームスタッフ、そして地元自治体担当課、避難自治体の保健師さん看護師さんたちとの連携協力が主な仕事となった。
 随時避難者に必要な物資の要請を受け、それを探し出し確保して届けることが医師会事務局に課された。
 これらの救援チームが去った後で医師会の巡回診療が開始され昼と夕刻避難所を訪れるのが日課になった。
 この巡回診療に積極的に参加してくれた会員諸氏の働き、初期の混乱の中で機能を失った当番診療所に代わって休日診療に従事してくれた会員諸氏とそのスタッフの優れた働きにもふれたい。
 4月に入り正式に医師会長職を引き継いだ直後に管区内のすべての避難所をめぐったが、避難所ごとの状況は大きく異なり、このような事態を自治体とともに想定してこなかった管区医師会としての失われた年月をあらためて悔いることになった。
 これらの苦い教訓をもとに、2011年12月に管区の3つの市町との災害時医療協定を締結した。
 またかねてより懸案の田村地方の夜間診療については県、県医師会、日本医師会の大きなサポートをいただき夜間診療所開設の道が開かれた。
 この診療所内に緊急災害時に医師会員が集って活動する拠点を持つことが決まった。 しかしすべてはこれからである。
 福島第一原子力発電所の状況は未だ無条件で安心することのできるものではなく、収束までには長い年月と膨大な労力が費やされる。
 この終結まで、そして半永久的に故郷を失った人々に安息と希望の訪れる日まで、私たち福島県に生きる同胞は見守ることをしなければならない。
 時折訪れる心の奥底の澱と闘いながらも最後まで覚悟を決めて。
 田村の医師たちの戦いはこれからである。
                    ( 以上 田村医師会長として )

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